2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された韮山反射炉(読み•にらやまはんしゃろ)
反射炉はなぜ作られたのか?
何のために作られたのか?分かりやすいガイドが売りの私がまゆが、どこよりも分かりやすく解説します!
韮山反射炉を作った理由
韮山反射炉を作ったのがこのエリアを見ていた代官•江川太郎左衛門(江川英龍)さん。
代官とは今で言う県知事のようなものです。
日本を守れ!
英龍さんが代官になった歳は幕末になっています。
日本は鎖国をしていますが、その頃から外国の船が日本の周りに現れるようになります。
当時は「外国船打ち払い令」というものがあり、簡単に言うと「外国船を見たら容赦なく攻撃しろ」という法律なので、一切外国船を入れない雰囲気だったのが分かります。
しかし、伊豆の南端の今の下田市でマリナー号事件も起きました。
「英龍さんカッコいい!」でおなじみの私まゆもシビれるマリナー号事件
外国の船が日本に現れるようになった理由は当時、捕鯨が盛んだった為に、補給地点として外国は日本を狙っていたようです。
また当時は隣りの中国で、1839年からアヘン戦争が起きます。
もしかしたら日本も日本の領地が欲しい外国が武力で攻めてきて、戦争になるかもしれないと危機感を抱きます。
マリナー号事件を経験した英龍さんは下田は外国の船が入っていきやすい場所でもあるし、防衛をもっと強化しないと下田、そして自分が見ているエリアが危ないと思い独学で、大砲など独学で防衛に関することを勉強します。
この防衛のことを当時は海防と呼んでいました。
今までの大砲ではダメかもしれない?
もしもの外国との戦争に備えて日本は防衛をしっかりしないととんでもないことが起きてしまうかもしれません。
しかし、日本の大砲にはひとつ問題がありました。
今までは青銅製だった
ここで当時の日本の大砲を説明します。
(青銅製の大砲。字のように青っぽくなっています)
当時は青銅という素材で大砲が作られていました。
青銅とは銅の中に10%鉄が入っています。
しかしこの素材は頑丈ではなく、費用も高く、大砲としては使いものにならなかったそうです。
青銅製がなぜ使いものにならなかったのか?
費用もさることながら、頑丈でないことは大きな問題点でした。
ここで大砲の飛ばし方を説明します。
このように中の火薬が爆発します。
ちなみにこの臼砲は2キロも飛びます。
江戸時代に既に2キロも飛ぶ大砲があったことに驚きますが、2キロも飛ぶほどの強い威力があったので、物凄い衝撃だったのでは想像できるかと思います。
青銅は頑丈ではないので火薬の爆発の衝撃に耐えられず壊れてしまい、また人が亡くなってしまう事故も多かったそうです。
オランダから画期的な書物の輸入
そんな中、オランダからこのように『鉄』を溶かす反射炉の設計図が書いてある本が輸入されます。
(日本は鎖国をしていますが、オランダとの貿易などの交流は許されていました)
これを入手し衝撃を受けたであろう日本人たち。
反射炉の建設ラッシュが日本で起き、全国で最大11基も建ちました。
なぜ全国でこんなに反射炉がたくさん造られたのか?
鉄を加工したい
その答えは『鉄』にあります。
先ほどの日本の大砲の素材は青銅と書きました。
実は鉄は青銅より費用が安くて丈夫です。
だったら、鉄で大砲を作ればいいじゃないかと思うかもしれませんが、鉄にはひとつ問題がありました。
1600度の温度が必要です。
ちなみに焚き火は700から800度。
当時の日本で高温を出す技術として、『たたら』がありました。
たたらはそこまでの温度は出せません。
つまり、当時の日本にはそんな温度を出す技術がなかった為に鉄で大砲ができなかったわけです。
しかしこのオランダから輸入された本には、鉄で大砲を作ることができるかもしれない。
もちろんこの本を手に取った英龍さんも、自分たちの街を守るために、独学で韮山反射炉の建築を決心します。
英龍さんは急死してしまい反射炉の完成はできませんでしたが、息子の英敏さんによって1857年に完成しました。
反射炉を作ることに幕府は許可したの?
ここでよく頂く質問が、
「大砲を作る反射炉なんか作って幕府は許可したの?」
許可しました。
例えば幕府に不満を持った人たちが武力で幕府を襲う危険性もありますが、それより深刻なことが起きてしまいます。
1853年7月にペリーが開国を迫りに来航してしまいます。
(私がガイドするときに使う紙芝居。ギャグっぽくなっていますが本当の本当に深刻だったと思います)
ここで日本としてはいよいよ防衛を強くしないと、外国の植民地など言いなりになってしまうかもしれない。
なので、反射炉の建設の許可が下りやすかったと言われています。
韮山反射炉の存在の意味
反射炉は自分たちの国を守る為に、早急に欲しかったのだと思います。
また、当時の日本では鉄を溶かすことや、1600度という未知の技術に触れたことに驚きと発見があったと思います。
当時は絶対にできなかった『鉄』の加工、製鉄の日本の技術の一番最初の象徴として韮山反射炉が『明治日本の産業革命遺産』として登録されました。
江川太郎左衛門の生家でもある江川邸とセットで行くことで、より理解が深まります。
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