伊豆で唯一の世界遺産•江川太郎左衛門(江川英龍)は日本人で初めてヨットを作った人と言われています。(江川太郎左衛門って誰?と思った方はコチラから)
なぜそういった経緯になったのでしょうか?
ちなみに私まゆは、韮山反射炉やお台場よりもこのヨット、ヘダ号が英龍さんエピソードの中で一番好きです。
そこには国境を超えた海の男たちの友情物語を感じました。
昨今のウクライナ情勢や戦争、そういった不安なニュースが多いですが、だからこそ知っておくべき歴史なのかと思います。
どうぞ、最後までお付き合い下さい。
きっかけはロシアからの一隻の船
きっかけはロシアから来た一隻の船、ディアナ号。
日本に来たのはとても大事な要件で来ています。
ディアナ号のときってどんな時代?
その前に歴史の流れを把握しておくと流れが掴みやすいです。
江戸時代、日本は鎖国をしていて、外国船打ち払い令というものがあったように、日本に外国船を寄せ付けないようにしていました。
しかし、その雰囲気を破ったのが1853年7月にペリーが黒船を連れ、開国を迫ります。
(私がガイドするときに使う紙芝居。ギャグっぽくなっていますが本当の本当に深刻だったと思います)
まだここでは貿易の自由はできませんが、「アメリカの船が燃料や食料の補給のために日本に来ても、よろしくね。間違えても打ち払いなんてしないでよ」と要約するとこんな感じでしょうか?
これが日本の鎖国の終わりと言われています。
日本と交流したいロシア、日本へ…
実はロシアも日本と交流をしたい為、1852年10月に皇帝の命令を受けたプチャーチンは日本へ向かいます。
しかし、日本のあらゆる場所に行ってはうまくいかず、日本との交渉は上手くいきません。
アメリカが開国を迫って日本がすごいバタバタしているのに、今度はロシアまで交流しようだなんて言ってきたので、もうロシア船が見えたその土地の人からすれば面倒事過ぎてたらい回しにされたのかななんて個人的には思ったり。
そこでその年の3月に先ほどの日米和親条約が結ばれます。
その年の10月に大阪に行った際に下田で交渉するように言われ、12月4日に下田に着きます。
12月22日に交渉が始まりますが、信じられないことが次の日に起きてしまいます。
安政の大地震
12月23日 午前9時 安政の大地震が発生します。
マグニチュードは8.4(1995年に発生した阪神淡路大震災のマグニチュードは7.3)
下田には15分後に津波が到達し、下田の町の840軒の家が流されたり壊れ、122人の人が亡くなりました。
安政東海地震から163年、今日起きたら社会の混乱は?(福和伸夫) - エキスパート - Yahoo!ニュース
その被害を受けたディアナ号。
舵が折れ、船底にも穴が開いていたために早く修理がする必要がありました。
しかし、ロシアは下田以外の場所で船の修理をしたいと幕府に言います。
なぜならロシアはクリミア戦争中だった為、下田では敵国のイギリスやフランスに見つかる可能性が高く、ロシアとしては都合が悪かったのです。
そこで伊豆の海を調査したロシアは戸田なら敵国に見つからない事と船を修理するには適した場所だということで戸田で修理することにします。
1855年1月。
ディアナ号は以下の絵のように幕府の船に引っ張ってもらう形で戸田を目指します。
しかし夕方から強風が吹き、荒天となってしまいます。
戸田に入れないどころか田子の浦の方へどんどん流されてしまいます。
船には水がどんどん水が入り、最後には沈没してしまいます。
ここから男たちの友情ははじまっていた
ディアナ号には乗組員500人ほどいましたが、全員助かっています。
なんと地元の宮島村(富士市)の人たちがディアナ号の船員さんたちを助けたのです!
日本財団図書館(電子図書館) 日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」 報告書
個人的にはこの話だけでももう感動してしまいます!
ディアナ号を失ったプチャーチンたちはディアナ号は修理しても航海には耐えられないと判断し、ロシアに迎えの船を呼びに行く為の小型の船を作る許可を幕府から貰い、一路、現在の富士市から戸田へと徒歩で向かいます。
これから異国の友情が生まれる船ヘダ号のために…
ディアナ号はまだ伊豆の海のどこかにいる…
実はディアナ号は現代の今、まだ駿河湾のどこかに沈んだままです。
何度も引き上げを試みてはいるのですが、発見に至らなかったそうです。
ディアナ号が現代に引き上げられ、170年以上海底に眠り続けた姿を見たとき、私たちはどんな思いになるのでしょうか?
ヨットを作ろう!
さて戸田に着いたディアナ号の船員さんたち。
このとき、ディアナ号にたまたま船の設計図があったこと。
そして日本側としては鎖国が終わったばかりなので外国の船の技術を学ぶには絶好のチャンス。
実際に幕府の要人たちが戸田で船を作っているのを見学していたそうです。
ということで、両者どちらもメリットがあるわけです。と言いたいのですが、なかなかうまくいかないのが現実…
日本人で初めてヨットを作った人
で、このエリアを当時見ていた代官(今で言う県知事的な役割)が英龍さんだったので、現場監督の責任者として任命されます。
ヘダ号にまつわる場所に行くと西洋式帆船と表現され私は最初どういう船か理解に苦しみましたが、某歴史の先生に尋ねたところヨットと言われた事で、私はガイドのときはみなさんに分かりやすくする為、こう表現しています。
言葉の壁があり過ぎた
ロシア人が設計図を書き、地元の人が船を作ることになりました。
まず、日本語↔︎ロシア語という通訳ができず、当時は日本語↔︎オランダ語↔︎ロシア語という通訳しかできません。
言葉を伝えるだけでも大変です。
さらにロシアの長さの単位はサージェン、日本は尺。
ロシア人の書いた船の設計図の長さが日本人は全く分かりません。
(戸田の御浜海水浴場)
そんな言葉も、文化も、全然ちがう2つのものが、協力し合ってひとつの物を作り上げていくのです。
約3か月後に船が出来上がります。
言葉の壁があったにも関わらず3カ月でできてしまうのは早いなと思いました。
ヨットが完成!…その名はヘダ号
(沼津市戸田造船史料館にあるヘダ号進水のときの絵。ロシア人もちょんまげをした日本人も混ざって仲良くヘダ号の進水をただ喜んでいます。人物の上に名前らしきものが書いてあって本当にいた人物かと思います。まだ写真が普及していなかったので忘れないように書いたのかもしれません。今のウクライナ情勢を見ていると、ロシア人は悪い人ばかりなのか?なんだかやるせない気持ちになります)
その間に戸田に滞在していたロシア人と日本人はすっかり仲良くなっていました。
ヨットが完成したときに名前をどうしようかという話になります。
船を作った場所、そして戸田のみなさんに感謝と友情の意を込めてロシアの方から船の名前を『ヘダ号』と名付けました。
なんですか!!この良い話は!
誰かドラマにして下さいっ!笑
鎖国して一年も経っていない日本ということを考えると、ロシア人どころか外国人すら見たことない日本人は、今で例えるなら宇宙人と交流するぐらい未知で、恐怖だったのではないかと想像してしまいます。
そこからここまで仲良くなれたのが本当に素敵で、ロシア人が帰国するときなんか、私だったら寂しくて泣いてしまう気がします。
ヘダ号は未来へ
無事に完成し、ロシアへ無事に帰国できてめでたしめでたしと思いきや、実はまだこれで終わりじゃなかったんです。
船大工さんたちのその後
鎖国が終わったばかりの日本としてはヨットを作るノウハウを学べるメリットもある!ということを書きましたが、このヘダ号と同じ船をもう一回作ってみようということで、君沢型(きみさわがた)というヨットを6隻作ります。
さらにそのヘダ号作りに関わっていた大工さんたちのその後もすごかったんです。
上田寅吉はさらに船の製造に関わりオランダに留学して更に技術を学び、横須賀造船所の大工士になり、天城、清輝、海門、天龍などの軍艦の製造に関わりました。
高崎伝蔵、渡邉金右衛門、又三郎は君沢型を参考にした船を作るため、山口県萩の造船所で仕事をします。
後にこの造船所は世界遺産になります。
そして韮山反射炉と仲間の世界遺産になるのですごい偶然にひとり興奮しています!
渡邉金右衛門の息子の忠右衛門は横浜で渡邉船渠という船会社を作りました(今の渡邉戊申株式会社で現在は造船技術を応用して不動産会社になっています)
緒明嘉吉はヘダ号のときは既に50歳を越えていましたが、その息子の菊三郎は造船会社を作り財を成します。
実はこの頃、三島市の楽寿園は存続の危機を迎えますがそのときにお金を出したのがこの菊三郎さんなんです!
(三島市楽寿園)
ヘダ号の歴史はしっかりと未来に受け継がれている事を感じて頂けたでしょうか?
ヘダ号を体感しに行こう!
戸田造船資料
江川邸でもヘダ号のガイドはしていますが、もっとヘダ号を知りたい方はぜひ、沼津市戸田にある造船資料館に行って下さい!
館内は写真撮影NGですので写真はありませんが、本当にオススメです。
ヘダ号を造った場所
ヘダ号を造った場所にはこのように石碑と看板があります。
ちなみにまゆさんの宣材写真?とも言えるコチラ。
本当にヘダ号好き過ぎてこの近くで写真撮ってます。
いや、本当に好きならここで撮れよと突っ込まれそうですが、富士山が見えなかった…orz
たぶん富士山が見えるような見晴らしの良い場所だったら、ロシア側のこっそり船を作りたいの意味がなくなっちゃうよねぇと思ったり笑
国境なんて関係なく仲良く話していた声が聞こえそう!林光寺
こちらはディアナ号に乗っていたプチャーチンが滞在したお寺です!
ヘダ号関連の本
勘定奉行…今で言う財務省の事務次官の職にあたる川路聖謨(としあきら)が長崎で初めてプチャーチンに会うところから物語りははじまります。
やがて交渉の場を下田へ…そこからこのブログを読んだみなさんはお分かりの通り、安政の
大地震が起きます。川路聖謨から見たプチャーチン、ヘダ号が描かれています。そして、時代は討幕へ。
同じ出来事を英龍さんとは違った別視点から見るのがとても興味深く読めました。
ヘダ号ファン必見です!
ヘダ号の歴史で私たちは学ぶ事がある
いかがでしたか?
ヘダ号の歴史を知ることにより、国際交流、情勢、技術を学ぶこと、自分たちのアイデンティティなど、考えさせられることはとても多かったと思います。
このヘダ号の歴史、残念ながら世間にはあまり広く知れ渡っていないというのが事実です。
先ほど出た江川太郎左衛門。彼は戦前の歴史の教科書に載っていたのですが削除されてしまったことに知らない方が大半となってしまいました。
学校では教えてくれなかったけれど、私たちには学ぶべき歴史がまだまだたくさんあると思います。
ヘダ号をもっと知りたい方はオンラインでガイドしています!
そんな江川太郎左衛門にまつわる場所に、伊豆で唯一の世界遺産•韮山反射炉があります。
彼の偉業を知ることにまた多くの事を私たちは学ぶことができます。
そんな彼にまつわる場所の歴史系観光ガイドをしています。ぜひ、ご利用ください。
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