毎年伊東市では按針(あんじん)祭が行われます。
ところで、この按針祭ってなに?
伊東は日本で初めてヨットが作られた歴史的にすごい場所ということで、今回は三浦按針を取り上げていきます!
三浦按針は何した人?
(伊東駅からも歩いて行ける按針メモリアルパーク。異国の雰囲気が漂いここだけ別の場所のような雰囲気です)
三浦按針は日本で初めてヨットを作った人です。
どういうことか歴史を見ていきましょう。
三浦按針は日本での名前で、本名はウィリアム・アダムス。イギリス人です。
1564年に生まれます。
この頃日本は戦国時代です(これ結構重要なポイントなので、覚えておいてください)
貿易を求めて世界は大航海時代!
航海士となったアダムス。
当時ヨーロッパはアジアへの貿易をしたかったので、続々とアジアへ船を向かわせていました。
そこで5隻の船がアジアに向かうということで、アダムスもその中の一隻に乗ります。
(実は海賊行為をしたかったのではないか?とも言われています)
1598年6月、オランダのロッテルダムから合計500人を乗せた5隻の船が出帆。
アダムス34歳のことでした。
(ロッテルダムから成田まで飛行機の距離でも9,308キロ。飛行機で15時間半掛かります)
船の生活は命がけ!
ところが、この船旅、アダムスは日本にたどり着くことができたのですが、
アダムス自身も、自分でも生きているのが不思議だと思うような壮絶な経験をします。
電気がない時代!
まず当時はヨット、つまり今のようにモーターなどはなく、風に運航が今よりも左右されます。
風が吹かなければ船は進みません。風向きが変われば何日もどこかで、滞在するしかありません。
数週間も何も進展がなかったこともざらにありました。
航海自体が今よりも大変だったことは想像できます。
GPSももちろんない!
https://publicdomainq.net/world-map-compass-0026337/
また今はレーダーやGPSがあるので広い海のど真ん中でどの辺りに自分たち船がいるかは分かりますが、
当時はそんなものはないので、星や太陽の動きを見て計算して、自分たちがどの辺りにいるのか把握していたようでしたが、
計算ミスをして実際は違う場所に行ってしまったこともあったそうです。
病気にもなりやすい
http://sekatsu-kagaku.sub.jp/vitamin-c-science.htm
また船での生活は病気になりやすくなります。
壊血病(かいけつびょう)とはビタミンCが不足することにより、貧血、体の無力感が出ます。
なぜビタミンCが不足するのかというと、長い間海の上での生活になる為、食糧はビタミンCが豊富な果物はすぐに腐ってしまう為、保存が効く食料を選んでしまった結果かと思います。
(現代は冷蔵庫、サプリメントなどがあるのでそういったリスクは少ないのかと思います)
航海から2ヶ月後には、60人ほどの船員が壊血病にかかります。
食料を求めて島に上陸したら殺されることも…?
実在した海賊一覧!歴史的に有名で伝説的な名前13選(女性含む)! | 世界雑学ノート
(実際に海賊もいました!)
そこで新鮮な果物など食料を調達するためにどこかに、寄港や島に上陸しますが、何も収穫がないこともあります。
また食料を求め島に上陸したところ、原住民に敵と思われ総攻撃に遭うこともあります。
アダムスの弟トーマスもこれで命を落とします。
またアダムスはイギリス人ですが、オランダの会社の船に乗っていました。
そのオランダはポルトガルと戦争をしていたので、ポルトガル人に見つかると戦いになってしまうこともありました。
船員はどんどん極限状態へ
このような過酷な船上生活だった為に、総司令官が亡くなってしまいます。
相変わらず壊血病の船員は増え続け、帆の手入れすらできないほど、健康な人が極端に少なくなっていきます。
このような極限な状態の中、船員たちの精神状態も悪くなり、喧嘩が多くなります。
そしてやっと日本へ
さらに嵐に遭い、3隻の船が行方不明になります。
当初の予定が大幅に狂ってしまい、これから先どうするかと話し合った末、船に毛織物(ウール)を積んでいて、暖かい地域では売れないが、どうやら日本では売れるという噂を聞き、そこで一路日本へ向かうことになります。
さらにそこでまた船ははぐれ、アダムスが乗っていたリーフデ号のみが、日本にたどり着きます。
日本に着いてから…
その途中でやはり壊血病に罹る者や行方不明になる者が出ます。
そのときに健康な者はたった5人しかいませんでした。
その中にアダムスがいました。
船は大分県の黒島に到着します。
それは1600年4月のことです。
2年近く掛けて、ようやく日本に辿り着きました。
日本は関ヶ原の戦いの半年前
さて、そんな日本ですが関ヶ原の戦いの前の半年前にアダムスたちは漂着します。
日本がとってもバタバタしていた時期です。
日本側からすれば、謎の外国船が漂着したということで警戒されます。
徳川家康と三浦按針
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06907/
秀吉が亡くなった後、家康が独裁政治を展開していた頃です。
そこで、家康に謎の外国船が漂着したという一報が入ります。
家康は家来に命令し、アダムスのいる地へ向かいます。
その時に対応したのが、アダムスとヤン・ヨーステンでした。
他の者は壊血病でまともに対応ができなかったからです。
家康と対面
https://www.osakacastlepark.jp/articles/detail.html?id=180&lang=ja
ふたりは家来たちに大阪に連れて行かれました。
連れて行かれた先に待っていたのは……なんと家康!
ふたりは家康と直接話をすることになります。
家康はどこから来たのか?君たちの国はどんな国なのか?と尋問します。
実はこの時の家康は海外との貿易に興味があり、海外事情を知りたかったと言われています。
そして直接アダムスと会って、家康にとって敵かどうか自分の目で確かめたかったのではないかと思います。
どうやら、家康はアダムスを味方にしたいと思ったようです。
家康との交流スタート!…というワケでもなかった
https://intojapanwaraku.com/culture/68788/
これで家康との交流がはじまる!
……かと思いきや、その年の10月に関ヶ原の戦いが起こり、それに忙しい家康は、アダムスをしばらく放置してしまいます。
そして、乗っていたリーフデ号も朽ちてしまいます。
ただし、生活費としてのお金や食糧の配給はありました。日本側から出港の許可も降りません。
また、船員同士でのケンカ別れなどがあり、徐々に皆、日本で暮らし始めます。
そんな流れもあり、アダムスも江戸で生活をはじめます。
日本で初めてヨットを作る!それが伊東!
(同じく按針メモリアルパーク)
関ヶ原の戦いから落ち着いた家康。
たびたび江戸に住み始めたアダムスを呼び、海外事情を聞いていたそうです。
家康「やってみればいい。うまくできなくても構わない」
そこで家康は「船を造ってほしい」とアダムスに頼みます。
アダムス実は航海士の前は、造船の仕事もしていたのでその話を家康にしたからです。
「私は大工ではなく、あまり知識はない」
と一度は断るものの、
「やってみればいい。うまくできなくても構わない」
と家康から励ましの言葉をかけられ、アダムスは船を作る事にしました。
私のイメージとしては、将軍様の前で失敗はできないというプレッシャーが強いのかと思いましたが、家康は柔軟な考えを持っているのかと思いました。
それだけ家康は海外の船作りのチャンスがあるならば…!と思ったのかもしれません。
なぜ伊東が選ばれたの?
(同パーク内。当時もこんな空を見上げながら造船したのでしょうか?)
その時に選ばれたのが、伊東市。
伊東が選ばれた理由は、港として栄えていたこと、もともと造船地としても有名な場所ということで、造船作りに向いていたからと言われています。
またこれは私の考えですが、
当時江戸城を作るときに、全国から人出や技術を集めて伊東に集まり、そこで江戸城に使う石を採取していたそうです。
なので、家康や幕府としては伊東という地が身近だったのかもしれません。
(伊東市の松川沿いにこんな看板を見つけました!)
ドックってなに?
実はその船の作り方やどんな船だったのかは、しっかりと分かっていないそうです。
色々な説がありますが、ここでは松川の砂ドック説を紹介したいと思います。
ドックとは、船を作ったり修理する為の施設です。
砂ドックってなに?
いかがでしょうか?
なんとなく砂ドックの仕組みを理解できたでしょうか?
(同パークから近くに当時こんなふうに作っていたのではないか?という絵もありました)
日本で初めてのヨット完成!
そして完成した船が、サン・ブエナ・ベントゥーラ号。「幸せを呼ぶ聖なる船」という意味です。
この模型は伊東市役所にありますが、これもはっきりと分かっていないようなので、案内板によると「こうだったんじゃないか?」と言ったニュアンスが伺えます。
なぜはっきりと分かっていないのか?
これも一説ですが、
『家康の命令で日本で初めてヨットを作った』ということは、当時はトップシークレットということはイメージしやすいかと思います。
トップシークレットだったので、文章が残っていないのではないか?と言われているそうです。
ヨットのその後…
このサン・ブエナ・ベントゥーラ号は1610年。
今のスペイン人が乗った船が台風に遭い、日本に漂着。
そのときの帰国用の船として提供されます。
そのときのお礼としてスペイン国王から時計が贈られます。
この時計は今も、静岡市にある久能山東照宮に大切に保管されています。
按針、その後はどうしたの?
この日本で初めてのヨット制作の成功を期に、家康は按針を大切に扱います。
ウィリアム•アダムスはなぜ三浦按針?
https://yokosuka-promenade.blogspot.com/2017/04/blog-post.html
今の神奈川県横須賀市に土地を与えます。
横須賀のある三浦半島にちなみ『三浦按針』と名乗るようになります。
按針とは当時、船のかじを取る『舵手』という意味だったそうです。
またここだけではなく、江戸でも住むようになります。
日本と外国の貿易の仲介人へ!
また按針は、国際情勢がよく分からず、しかし貿易をしたかった家康の右腕となり、スペインやオランダとの貿易の架け橋にもなります。
日本のことを熟知していた按針は、相手国との交渉に大いに役に立ったと思います。
(伊東市の東海館では按針の展示があります!)
しかし、このように家康に特別待遇された按針ですが、故郷へ帰る夢を捨てきれずにはいられませんでした。
何度か帰国を願うのですが、家康にこのように気に入れられたため、なかなか許可が下りません。
一度帰国のチャンスがあるのですが、それを逃してしまいます。
結局、按針は母国の地を踏むことなく亡くなってしまいます。
家康の死、貿易の終わり…?
江戸時代、幕府といえば、鎖国のイメージがあるかと思います。
しかし、家康は貿易をしたいようでした。
しかし、1616年に家康が亡くなり、次の秀忠の時代になるとそれまでの積極的な貿易をやめ、消極的になってしまいます。
その為に、按針の待遇も今までとは冷遇されてしまいます。
そんな中、按針は1620年に55歳で亡くなってしまいます。
https://mainichi.jp/articles/20190531/ddl/k14/040/108000c
江戸時代の初めの日本は貿易をしようと、むしろ国際社会になろうとしていた姿に驚かされます。
その時の大事なキーパーソンが三浦按針でした。
しかし、家康亡き後、貿易に消極的な日本になってしまい、後に長い鎖国となってしまいます。
もし日本がこのまま貿易をしていたら…?と考えてしまいます。
きっと歴史も全く変わってしまったことと想像できます。
按針祭に行こう!
按針祭とは、1947年(昭和22)8月10日に伊東町と小室村が合併して伊東市が誕生します。
その日に第一按針祭が開催されました。
そこから毎年この日に按針祭が行われています。
按針祭では花火以外にも灯籠流しや太鼓の演奏などもあります。
伊東市が始まった日に按針祭が開催されたのは、按針が自分たちの街の誇りだという気持ちを感じます。
伊東市に行ってみませんか?
いかがでしたか?
日本で初めてヨットが作られた街•伊東市。
海や風、後ろにそびえる山々…伊東は温泉や海だけでなく、歴史の街なんです。
たまには伊東の歴史を探りにタイムスリップの旅もいいかもしれません。
伊東でのタイムスリップの旅へ、私ガイドがご案内•お手伝いいたします。
次のおすすめ記事
◇伊東は日本で初めてヨットが作られた場所ですが、
なんと伊豆の西側、反対側は日本人によって初めてヨットが作られた場所なんです!
こちらも異国の人との熱い友情物語。ぜひ、感動して下さいっ。
◇先ほどのこちら。
伊豆石という大人気の石だって知っていました?
ぜひ知ってほしい伊豆石のすごさ!