松崎の教育のバトン
みなさん、勉強は好きですか?
学生時代、勉強は好きでしたか?
今回は松崎町の歴史を見ながら、勉強することの意味をみなさんで考えてもらえたらなと思います。
松崎町の歴史は個人的には教育の町という印象を受けました。
入江長八と土屋三余からのバトン
松崎町出身の有名人として、江戸時代末期から明治に活躍した漆喰職人の入江長八(1815〜1889)がいます。
長八の作品は松崎町内でたくさん見ることができます。
(岩科学校)
(長八記念館・浄感寺)
長八は貧しい農家の出身だった為に12歳まで浄感寺で学問を教わります。
(浄感寺を再建するにあたって漆喰職人となった長八は恩返しにと作品を残します)
そして、この浄感寺で学問を教わっていた人物がもうひとりいました。
土屋三余です。(1815〜1866)
土屋三余からのバトン
江戸時代末期、掛川藩の領地だった松崎町周辺は、藩の人たちの横暴なやり方に多くの農民が苦しめられていたそうです。
その状況を見た三余は知識や学問がないから農民が苦しめられているのだと考え、松崎町に三余塾を開きます。
(三余塾資料館)
門下生は700人を超え、仙台、信州、甲州、千葉からも人が来ていたそうです。
そしてその三余塾に通っていたふたりの兄弟がそこにいました。
依田勉三と依田佐二平からのバトン
依田佐ニ平(1846〜1924)と
依田勉三(1853〜1925)です。
まず兄の佐ニ平は日本が開国をしたことに強い衝撃を受け、文明開化の足がかりになればと大沢塾を開きます。
(花の三聖苑)
それだけではなく佐ニ平は松崎の産業発展の為に生糸産業、銀行経営、そして第一回帝国議会衆議院議員になります。
そしてその弟の勉三はまだ未開の地だった北海道に貢献した人物です。
勉三は20年以上に渡って北海道に農業や酪農に挑戦しますが、ことごとく失敗してしまいます。
しかし、彼の挑戦があったからこそそれをタネに今の北海道の産業が発展したと言われているのです。
松崎の歴史は巡る
こうして見てみると松崎町の教育が全て巡り巡っていて、誰かが学びを教えてくれたからこそ、その学びのバトンを受け取った者が町や国、世界を動かしているのが分かるかと思います。
また、個人的には最近「無知だからこそ損をしたり、悲しい思いや苦しい思いをしている。無知だからこそ死んでしまうこともある」ということを強く感じています。
それは土屋三余が三余塾を開くきっかけになった気持ちに似ているのではないかと思ってしまいます。
教育の大切さ
みなさん、勉強は好きですか?
勉強が嫌いな人はいるかもしれませんが、知ることで、学ぶことで、自分の無限の可能性やどこまでも何でもできるんだという事を松崎の歴史で感じました。
(花の三聖苑)
松崎町に行ってみませんか?
いかがでしたか?
しかし、歴史の凄さを感じてもらったと思います。
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