松崎町の道の駅・花の三聖苑に行くとこんなものがあります。
この中のひとり、土屋三餘を取り上げます。
実は私・まゆがこの中で一番好きなのが三餘さん。
あなたも三餘さんを知れば、勉強するのが楽しみになるかも⁉︎
土屋三餘ってだぁれ?
松崎が生んだスーパー兄弟・依田兄弟の塾の先生
依田兄弟とは、
弟・勉三は明治時代、まだジャングルのように未開の地だった北海道を開拓した人
兄・佐二平は伊豆の奥地の松崎町の街づくりをした人です。
そんなすごい生徒を出した三余塾とは?土屋三余とは何者だったのでしょうか?
三餘さんの名言集
(三餘資料館の展示品)
そんな優秀な兄弟を育てた土屋三餘とは何者だったのでしょうか?
個人的には三餘さんの言葉のひとつひとつがきらきらと輝いていて、とてもたまらない気持ちになります。
そんな三餘さんの生い立ちを紹介しながら、私が個人的に名言だと思ったところをピックアップしてみました。
名言のもとは儒教から
1815年(文化12)幕末に松崎町に生まれ、最初は宗三郎と言います。
8歳のときに両親を亡くしますが、町内にある浄感寺で経書を習います。
「農民が卑しめられるのは学問をしていないからだ。武士と対等の人間を育てることを自分の生涯の仕事にしよう」
しかし藩の人は農民に対しての意地悪が多く、それを見た宗三郎は、
「農民が卑しめられるのは学問をしていないからだ。
武士と対等の人間を育てることを自分の生涯の仕事にしよう」
と決心します。
15歳と17歳のときに江戸へ勉強しに出掛けます。
成績が優秀だったからこそ、できたことだと思います。
江戸では東條一堂からここでも儒学を習います。
25歳で松崎町に戻り、結婚、そして最初の塾を開きます。
27歳で自分の自宅に竹裡塾を開きます。
39歳のときに依田兄弟の兄・佐二平が入ってきます。
そしてこの年の1853年にペリーが開国を迫りに、黒船で浦賀に来ます。
その翌年に日米和親条約……これは鎖国の終わりの条約とも呼ばれていて、その一番最初の貿易港に選ばれたのが全国の中のなんと下田市でした。
松崎町と下田市は隣り町ということで、松崎町の人たちは自分の隣り町がまさかそんな場所になってしまった事に相当びっくりしたかと思います。
どうやら、三餘さんは当時8歳の佐二平さんを連れ、下田まで行って黒船を見に行ったそうです。
(三餘資料館ではその時にまつわる物を見ることができます)
三餘の由来
42歳のときに新しい校舎を建てますが嵐で倒壊。
しかしそれに挫けずに、三餘塾を開き、自分も三餘と名乗ります。
三餘とは「勉強する時間がない」と嘆いた弟子に、儒学者の薫遇が
「(当時は農民が多かったので農作業が休みの)夜、冬、雨の日と3つの暇な時間にすればいいじゃないか」
余暇という言葉があるように余とは暇のこと。
今の言葉で言うならば「すき間時間を見つければ、いくらだって勉強できるでしょ?」というように私には聞こえました。
「学問は決して勝敗を競うものではありません。自分として納得のいくまで励むことですから。」
46歳のときに依田兄弟の弟・勉三さんが入塾します。
まだそのとき7歳でさすがの両親も不安に思ったようですがそんなときに三餘さんが放った言葉が
「学問は決して勝敗を競うものではありません。自分として納得のいくまで励むことですから。」
順位を付けたり、成績の良し悪しで進路が決まってしまうので勉強する。
そうではなく、勉強することの本当の意味をこの言葉は語っていると思います。
なぜまゆさんは三餘さんが好きなの?
ここでは私が三餘さんが好きになった理由をお見苦しいかと思いますが、書いてみようかと思います。
絶対に治らないと思っていた病気から立ち直ったワケ
実は私は遺伝性の病気で働くどころか、全く日常生活が送れずにいた時期が13年ありました。
その時はもう一生このままで惨めに一生を終えてしまうのだろうなと考えていました。
そんな時、病気を理由にお付き合いしている人にフラれてしまい、その人を見返すために、絶対に元気になってやろうと決心します。
そこで自分なりに何か良い方法はないか探していたところ、見つけたのがマインドフルネス瞑想でした。
これを数ヶ月した結果、なんとどんどんと良くなって、病院に行く必要がなくなりました。
これを読んで嘘だと思う方や、なんだかマインドフルネス瞑想なんてあやしいと思う方がいるかもしれません。
マインドフルネス瞑想の効果が本当にあるかはどうか置いておいて、私はそのとき「もっと早く知っていたら良かったのに」と思いました。
そのうちに「知っているだけで、知識があるだけで、人ってこんなに幸せになれるんだ」と思うようになりました。
自分の経験からそんな事を身を持って感じていた頃に、私は三餘さんの三餘塾を開くきっかけになったあの言葉に出会いました。
「農民が卑しめられるのは学問をしていないからだ。
武士と対等の人間を育てることを自分の生涯の仕事にしよう」
知っているだけで、人間はいくらでも幸せになれるとその時私は確信しました。
江川邸に勤めてから知っているだけで日常がこんなに楽しいと思った
さらに同じ時期に私は江川邸でガイドの仕事をはじめます。
明治時代がどうやって始まったかもよく理解していないほど、実は歴史の一般常識も知らなかった私だったのですが、世間に全然知られていないのにスゴい英龍さんの事を全国、いや全世界の人に知ってほしい、という気持ちで勉強を始めます。
最初は「仕事だから」と勉強しはじめた伊豆の歴史や日本の歴史。
ところが、どこかへ遊びに行ったときに「あ、これ江川邸の勉強していたときに出てきたやつだ。なるほどー、これとこれが繋がったぞ」といつも見ていたものに新しい発見を感じ、そのうちに
「知っているだけで日常ってこんなに面白くなるんだ!」
と感じるようになりました。
歴史を勉強して何になるのか?お金が貯まるわけでも、異性にモテるわけでもなく、資格のように就職に有利になるわけでもないのになぜ…?幸い私は小説や漫画を読むみたいにおもしろいからという理由で勉強していますが、本当は他人から見たら全く無駄なジャンルの勉強も実は「知る」だけで日常を面白くさせているのではないかなと思いました。
三餘さんは分かっていない事だらけ?
幕末の時代「新しい時代になるかもしれず、こんな手紙や文章を残していたら処罰されるかもしれない」と処分してしまった為に、三餘さんについてよく分かっていない事がたくさんあるそうです。
私もこれからもっと三餘さんの事を知って、新しい名言を見つけたらまたここで紹介したいと思っています。
三餘さんに会いに行こう
松崎町には三餘さんに関する場所がたくさんあります。
それをここでは紹介いたします。
三餘資料館
三餘さんの生家は実は今も残っていて、そこは三餘資料館としてあります。
子孫の方が個人でやっている為に電話予約が必要だったりと少し手間に感じるかもしれませんが、勉三さんが北海道に旅立つ前に書いた書など、とても貴重な資料がたくさんあります。
(三餘塾資料館にある依田兄弟の書)
松崎の名産ポンカンに大いに関係あり!栄久ぽんかんって何?
また、「三餘農園?」と思った方がいるかもしれません。
三餘さんは1866年(慶応2)に亡くなってしまいますが、明治に入り、その子孫の土屋準次さんが明治36年ごろにネーブルオレンジを譲り受け柑橘類の栽培をはじめます。
その息子の栄久さんが「栄久ぽんかん」という品種を広めます。
これは今も松崎町の名産品となっています。
勉強を教えていた三餘さんの子孫がなぜ農業を?と意外に思うかもしれませんが、実は三餘塾では詩文、作詩、算術、習字、だけではなく、剣術と農作物を作る授業がありました。
この農作物を作る授業は、ひとりにひとつ田畑を与え、自分で何か一つ作物を作る授業でした。
三餘さんは農業のノウハウを勉強することも大切だと考えていたようです。
道の駅・花の三聖
道の駅、という事でどなたでも気軽に立ち寄ることができます。
ここには佐二平さんが松崎町の教育の為にと建てた大沢学舎あります。
その中に三餘さんだけではなく、依田兄弟に関する資料が入場無料で展示されています。
西法寺
三餘さん33回忌の明治31年(1899年)
佐二平さんをはじめとした三餘塾の塾生たちによって建てられた碑があります。
その頃は佐二平さんは55歳。
日本で初めての国会議員にもなり、その頃じゅうぶんに名声を共にした佐二平さんでしたが、自分をここまで育ててくれた恩師の事は忘れていなかったようです。
松崎町に行ってみよう!
土屋三余さんや依田兄弟、松崎町にまつわる場所もガイドしています!
ガイド=解説を聞く事で知識ゼロでもその場所の良さをさらに学ぶ事ができます。
こちらのフリーガイドで松崎町の事もガイドしています!
伊豆にお出掛けの際はぜひご利用下さい。
参考資料
三餘資料館で頂いた資料
三余農園パンフレット
讀書三餘(どくしょさんよ) / 董遇のことば 書道 ohana 通販|Creema(クリーマ) ハンドメイド・手作り・クラフト作品の販売サイト
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